「~味土野に幽閉?!隠棲?!~」 (細川ガラシャ ~その3~味土野) ~名言地産地消(19)~

「~味土野に幽閉?!隠棲?!~」
(細川ガラシャ ~その3~味土野)
~名言地産地消(19)~

丹後は多くの名士を輩出した。その名言を今丹後に暮らす我々が地産地消していこう。

天正十年(1582年)六月二日 本能寺の変が起きる。
十三日 父光秀、坂本城に逃げる途中で殺される
十五日 坂本城にて一族郎党自刃、城を焼く。

細川家の家臣は、たま(ガラシャ)に自刃を勧める。

たまは家臣に言い切る。
「夫の命待たで、三従の戒めに反するは不可。むしろ敵を待ちて死すとも遅からじ。」

後日、剃髪した忠興はたまの前に現れ、たまに言った。
「御身には罪はないが、御身の父は大逆を行った。我父子、かつて君恩を蒙ること大であるから、之に報いなければならん。
 御身の如き逆賊の子と室を同じうしていることは出来ない。」

そして、たまは丹後の山中、味土野で暮らすことになった。

※「細川忠興夫人」 行待 廸著 /三丹印刷 より引用しています。

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後世、「ガラシャの味土野幽閉」と伝わる。たまはその後キリスト教の洗礼を受けて”ガラシャ”となるのだが、その理由の一つがこの味土野幽閉とされている。

歴史作家の永井路子さんの解説では、
「この三戸野(味土野))は丹後半島のほぼ中央、山また山に囲まれた雪深い山ぶところの地だ。十一月から雪がちらつき、やがて根雪になって、春が更けるまで外界から隔絶される。
 私も数度取材に出かけているが、三月末に訪れるたときは雪が深くても途中までしか行けなかった記憶がある。まして戦国のそのころ、この地は淋しさはどのようなものであったか。
 お玉はこの地で二度の冬を過ごす。生まれてはじめての孤独、絶望ー。城主の娘、城主の妻として恵まれた環境だけに生きて彼女は予想もしなかった試練にぶつかるのだ。
 はじめはその運命を呪いもしたであろう。」

※「細川ガラシャ展 寄稿文」 永井 路子著 /毎日新聞社より引用しています。
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この味土野という地、標高400mの分水嶺にあります。山に囲まれた秘境というより、高原に近く空気も澄んでいるので平地より明るいかと思います。
近くに金剛童子山があり、昔は修験者が往来があったという。
明治の頃は40戸あり、近くの集落では最大であった。整地された思われるところが多くまた水源の地でもあるため、たまが暮らしていた頃は案外多く住んでいたのかもしれません。

たまが暮らしていたところに、現在石碑が立っています。
崖に面していて、まわりに矢竹の垣が今もあり、ここが要塞であったことが偲ばれます。

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たまは一人で暮らしていたのでなく、清原いとなど侍女も一緒で、近くには警備のため派遣されていた武士もいました。

また、味土野で疫病が流行し死亡者が多くいた、たま深く憂慮し、

「いかでかは 御裳濯川の流れ汲む 人にたたらむ 疫れいの神」 :御裳濯川(みもすそ)の流れ汲む人:真面目な態度の人

との和歌を書いて、村人の門戸に貼らしめたたのこと。
村民の交流もあったのではないかと思われる。

私自身、味土野から出てきた人と家族ぐるみの交流があるが、純朴できさくで明るい方です。
たまも、楽しく味土野の村民と楽しく暮らしていたのでないかと思えてしかたありません

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現在、味土野はIターンで人は新たに人が入り始めています。
田舎暮らしを希望する人にとっては、京丹後市の街中は中途半端の田舎に見えるようで、どうせなら味土野のような思い切り田舎の方がいいとのことのようです。

京丹後市は味土野を”ガラシャの隠棲地”と呼んでいます。幽閉地のイメージを払拭してほしいのですが。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、たまが子供ころ、越前での赤貧の暮らしも描かれてます。
たまは都会育ちで、苦労しらずのお姫さまではないはずです。また、この時代今ほと都会も田舎もそれほど大きな差はなかったはずです。

味土野の話は、光秀の死後になるのでドラマで出てくるか微妙なのですが、これを機にイメージが変わってほしいです。

まずは、丹後人はここは決して幽閉地と思わないことが大事かもしれません。
丹後は、楽しく心豊かに隠棲できる場所なんです。(友木)

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